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yoshinobunakamura’s diary

余生(第二のチャレンジ人生)をいかに生きるか考える為にブログを立ち上げてみました。

からゆきさんがいた町、サンダカン

 2006年8月にクアラルンプール経由でマレーシア、カリマンタン(ボルネオ)サバ州サンダカンに行きました。

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娼館の女将が作った日本人墓地。左の墓標が本人(木下クニ)の墓。

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裏側からの写真。

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100人以上のからゆきさんが眠っているとのことだが、そのほとんどは墓標も朽ち、草薮のなかに消えていた。かろうじて原型をとどめているのが、現在の20基ほどの墓だ。と、言われている。

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日本人墓地から見渡せるサンダカンの港と海。

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日本人墓地の入口。

山崎朋子が『サンダカン八番娼館』を1972年に出版したときには、サンダカンの日本人墓地の存在はまったく知られていなかった。
 ところがその後、この本を読んだサンダカン在住の商社員が休日をつぶして「からゆきさんの墓」を探しはじめ、篠竹と羊歯の生い茂る山道を山鉈で切り開き、とうとう華人墓地の奥の一角に白い墓標を見つけ出した。

発見された日本人墓地はその後、現地の日本人会の手によって整備され、供養も行なわれているようである。

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サンダカンにはオランウータン保護区があり見学出来るようになっています。その入口。

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見学に来ていた子供達。

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サンダカンの町中。

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マレーシアはインフラ(道路・電気・水道等)は地方も整備され、東南アジアでは優等生国家です。

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露天市場。

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港の魚市場。

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町中でパレードが行われていました。

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クアラルンポールからサンダカン間は、往復エアーアジアを使いましたがネット予約も簡単で、地元の人もバス移動の感覚です。搭乗券はコンビニのレシートみたいなモノです。機内食は各自好きな物を現金購入する事になります。

以下、参考記事。

マレーシア・サンダカン、
日本に背を向けて建つ“からゆきさん”の墓
橘玲の世界投資見聞録]
http://diamond.jp/articles/-/40161
からの転載。

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サンダカンは日本への南洋材(ラワン材や黒壇、チーク)の輸出基地で、明治・大正時代から多くの日本人が暮らしていた。戦後も木材を買いつける商社員などが常駐し、日本人会も活動していたが、環境破壊や森林資源の枯渇が問題になるにつれて貿易量は減少し、いまでは町で日本人の姿を見かけることはほとんどない。
昭和43(1968)年、女性史研究家の山崎朋子は九州・天草の食堂で偶然、一人の老婆に出会う。「身長は一メートル三、四〇センチくらい、全体に痩せて細く、足と腕はまるで鳥の脚のように骨ばっており、身につけているものといっては、紺色の褪(さ)めかかった粗末なスカートに洗いざらしのシャツ、履きものは裏の磨り減ったゴム草履」だった。

 山崎は老婆の、「小まんかときから外国さ行ってた人間だけん」という何気ないひと言に衝撃を受ける。九州のなかでも天草や島原はことのほか貧しく、幕末から明治期を経て大正中期まで、この地に生まれた女たちの多くが海外に売られていった。「からゆきさん」と呼ばれた彼女たちの足跡は中国大陸や東南アジアを中心に、北はシベリアからインド、アフリカにまで広がっている。山崎は彼女たちが鬼籍に入る前にその肉声を記録に残したいと考えて天草を訪れたのだが、なんの伝手もなく途方に暮れていたのだ。

 山崎は取材の意図を伏せたままおサキさんという老婆に頼み込んで、いっしょに暮らすようになる。山崎が3週間をともに過ごしたおサキさんの家は、以下のように描写されている。

「ひどか家じゃが――」と念を押されてはいたものの、一体、これが人間の住む家だろうか。その家は山を剔(えぐ)ってできた崖下にあったが、真っ黒な柱はどうやらまっすぐ立っているものの、何十年も葺(ふ)き替えないため堆肥の塊のようになってしまった萱葺(かやぶ)き屋根は、南側に姫紫苑(ひめじおん)やたんぽぽなど、北側に羊歯類をたくさん根づかせており、わたしには、昔話に聞く鬼婆の宿としか思われなかった。

 老婆は、「タマや」とか「ミーや」とか、猫の名を呼びながら小走りに家に駆けこみ、わたしを招じ入れてくれたのだが、その家の内部は、さらにいっそう荒涼たるありさまである。二間の座敷に土間だけという、農家としてはおもちゃのようなその家は、低い天井から一メートルもの煤紐(すすひも)が下がり、荒壁はところどころ崩れ落ち、襖と障子はあらかた骨ばかりになっている。座敷の畳はほぼ完全に腐りきっているとみえ、すすめられるままにわたしが上がると、たんぼの土を踏んだときのように足が沈み、はだしの足裏にはじっとりとした湿り気が残るばかりか、観念して座ったわたしの膝へ、しばらくすると何匹もの百足が這い上がって来るので、気味悪さのあまり瞳を凝らしてよく見ると、何とその畳が、百足どもの恰好の巣になっていたのである(『サンダカン八番娼館』)。

 山崎を近所の農婦たちに「息子の嫁」と紹介したおサキさんは、問われるままに身の上を語りはじめる。それは大略、次のようなものであった(「女郎」「女郎屋」はおサキさんの言葉のまま表記している)。

 天草の貧農の家に生まれたおサキさんは、跡取りである兄に嫁を取るため、十の年に300円で女衒に売られた。おサキさんの話では、姉やその娘たちだけでなく、叔父の娘たちも、一族の女はほとんどがジャワ(ジャカルタ)やラングーンヤンゴン)に売られている。
 おサキさんを買ったのは、ボルネオのサンダカンにある女郎屋(娼館)だった。
 当時のサンダカンには、日本人の経営する女郎屋が9軒あった。おサキさんは三番館の住み込みとなり、最初は下働きをしていたが、13の歳から客を取らされるようになる。
 ところがそれから2年ほどすると、三番館の主人が病死してしまう。借金を返済し終えた女郎は自由の身になれるが、残債のあるおサキさんたちは別の女衒に売り飛ばされ、ジセルタン(ジェッセルトン)からタワオ島(タワウ)へと転々とする羽目になる。あまりの辛さに逃げ出すことを決意したおサキさんが頼ったのが、サンダカン八番娼館の主人、木下クニだった。
「サンダカンのおクニ」は当時、「南洋では知らぬ者はない」といわれるほどの有名人で、東南アジア旅行記にはかならずといっていいほどその名が記されていた。天草に生まれ、若いときは横浜でイギリス人の妾として「奥様」と呼ばれる暮らしをしていたが、そのイギリス人が本国に帰ると30歳を過ぎてから単身サンダカンに渡り、雑貨屋と女郎屋を開いた。おサキさんが出会ったときは60歳ちかくで、サンダカンの女郎屋の元締になっていた。おクニはおサキさんの懇願を受けて、女郎屋の主人と話をつけて彼女を買い取ってくれたのだ。
 おクニは世話好きで、自分が借金してでも他人を助け、女郎にも温情をもって接し、薄幸の彼女たちから慈母のように慕われていたという。八番館では女郎にも豚肉や鶏肉の膳が並び、肉の苦手なおサキさんには黒鯛の刺身が出た。
 おクニはとりわけ同郷のおサキさんを娘のように可愛がったが、おサキさんがイギリス人の妾に出て2年ほどして病死してしまう。最後を看取ったおサキさんに残した遺言は、「墓ば建ててあるけん、そこへ入れてくれ」とういうものだった。おクニはどれほど勧められても故郷の天草には帰ろうとせず、サンダカンに自分と日本人のための墓地をつくっていたのだ。
おサキさんの話によれば、そこには100人以上のからゆきさんが眠っているとのことだったが、そのほとんどは墓標も朽ち、草薮のなかに消えていた。かろうじて原型をとどめているのが、現在の20基ほどの墓だ。

 おクニが死んでからおサキさんは体調を崩し、天草に戻されることになる。そこで地元の農夫と結婚するがうまくいかず、知り合いに誘われて満州奉天(現在の瀋陽)の女郎屋に行き、そこで知り合った日本人と結婚して一児をもうける。

 敗戦によって家財一切を失い、着の身着のままで日本に逃げ戻ったのちは、京都で一家三人で暮らしていた。その後、夫に先立たれ、息子が嫁をもうらう段になって、自分の過去が邪魔になるからと天草に戻ったのだ。山崎が出会ったときは、息子からのわずかな仕送りで生活していた。

山崎朋子が女性史に興味を持つようになったのは、26歳のときのある事件がきっかけだった。田舎から東京に出てきて、女優を目指しモデルなどの仕事をしていた山崎は、当時つき合っていた(といっても数回デートしただけの)男からいきなりナイフで切りつけられ、顔に7箇所、68針を縫う大怪我をしたのだ。

 山崎がおサキさんに出会ったのは30代なかばで、すでに結婚して一児がいたが、顔の傷はまだはっきりとわかるほど深かった。おサキさんはそんな女を理由も聞かずに自宅に泊め、これまで誰にも話したことのなかった過去をすべて打ち明けたのだ。

 別れの日の前夜、山崎はおサキさんを騙していることが耐えられず、泣きながらすべてを打ち明けた。それに対しておサキさんは、山崎が外国の話を聞きにきたことは最初からわかっていたとこたえた。そのうえで、「ほかの者ならどうかしらんが、おまえが書くとならなんもかまわんと」といったのだ。

 このようにして『サンダカン八番娼館』は世に出ることになり、からゆきさんと呼ばれた日本人娼婦と、彼女たちに慕われた娼館の女主人の数奇な運命は、歴史の暗闇のなかからよみがえった。

 おクニのつくった墓はサンダカンの海に向けて建てられていたが、それはすべて故郷である日本に背を向けていた。

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